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世界の高みに向かって、全力で走り続ける町工場【有限会社精工パッキング】

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事業承継して見えてきたこと、取り組んできたこと

――今、ご入社のお話がありましたが、どのような経緯で精工パッキングに入社されることになったのですか

入社したのは18歳のときですね。子どもの頃から「シュウちゃんは次に社長になるんだから」と言われつづけてきたものですから、そういうものだと思っていました。自分としては、大学を出たら入社するつもりだったんですよ。だから、それまでは「好きなことやろう!」と思っていて、バイトは大学近くのスキーショップで働いていました。

すると父から「どうせならウチで働かないか?」とスカウトされまして、「家業は大学卒業したらやるから」と断りました。学生だから「遊びたい」って気持ちもあるじゃないですか。そうしたら、スキーショップの月給よりも出すから「来い」と誘われまして。でも、学生時代から家で働くのはちょっとなーと渋っていたところ、「クルマの免許どうするんだ?」と聞かれて、「免許代も出してやるよ」と言われて。それで心が動いちゃったんですよね、若気の至りです(笑)。

そこから5年間は大変でしたよ。僕は「地獄の5年間」と呼んでいますけど(笑)。そのとき僕は夜間の大学に通っていて、朝の8時に工場に来て16時まで仕事。それから飯田橋の大学に行って勉強。そのあと同級生と深夜まで飲んで。家に帰って少しだけ寝て、また8時に工場へ。結構ハードですよね。そんな生活を続けていたので大変でした。その間、ずっと職人として仕事をして、2013年に叔父が倒れたのをキッカケに経営に関わるようになり、2015年に社長になったという流れですね。
 

――会社を継がれて、初めて見えてきたことがいろいろあると思うのですが、いかがでしたか?

そうですね。“鎖国状態”だったんだな、というのが最初の印象でしたね。どういうことか、説明しますね。社長に就任して、ずっと所属している「葛飾ゴム協会」へ挨拶に行ったんですよ。その会の人たちからこういう質問をされました。「精工パッキングさんって何の仕事をされているんですか?」って。何十年も所属している工業会の人にも何をやっている会社なのか知られていない。「これは問題だぞ」と思いました。

実はこれには理由がありました。1989年に社屋を新しくしたときに、あまりにもキレイになったので「見学に来たい」という同業他社さんがたくさんいたそうです。「それならば…」と父は見学を許可したんですね。しかし、しばらくすると仕事が減ってしまいました。「時代の流れかな」と思っていたそうですが、聞けばウチを見学に来た会社が同じ機械を10台以上導入してウチに来ていた仕事を取っていたことが分かったんです。それ以来、工場に人を入れない、事業内容をくわしく話さない、といった“鎖国状態”をつづけてきたのだそうです。

いい面としては、30年にわたって技術が守られてきたこと。悪い面は、何をやっているか分からない知名度のない会社になってしまったこと。前者はともかく後者は新しい仕事が来ませんから、なんとかしなければと思いました。目立つために考えたのが、『葛飾ブランド「町工場物語」』に認定されることでした。認定されると、マンガになったり、表彰されたり、展示会への無料展示ができる特典があるんです。で、狙い通り認定されることになりました。
 

――加工会社の展示会参加ということですが、技術のアピールって難しい気がするのですが…

そうなんです。だから知恵を絞りました。その結果、「自分たちの技術でできるモノを展示すればいいんじゃない?」という結論に至りまして。どうせなら目立つものがいいですよね。それでいろいろ考えて、幅0.2mmの極細輪ゴムに行き着きました。たぶん、世界一の細さです。

極細輪ゴム

それを展示会に出してみたところ、お客さんが寄って来るんですよ。「なんだ、これは!」って。今までしかめ面で会場を歩いていたおじさんたちが、興味津々で近づいてくる。で、ウチでは1本ずつ配っていて、腕とかに巻いてもらうと、みんな笑顔になる。「こんなの見たことがない」って。目をキラキラさせている。その様子を見て思ったんです。「面白い商品には、人を笑顔にする力がある」って。

次に手掛けたのが『ポレット』です。これは、日本に古来からある風呂敷をヒントに、ボタンがないのに素材の粘着性だけで、風呂敷のようにカタチをつくり、そのカタチが崩れることなく小物入れやパッケージになるというもの。カラフルに色のバリエーションを作って、クウンドファンディングでも評価をいただくように。このように、ストレートなアピールでは伝わりにくい平板打ち抜き加工を、商品をフックにして知ってもらう流れを作った結果、新しいお客様と仕事と出あうことができました。

ポレット

医療分野からの協力依頼とか、オリンピックに関する依頼とか、今まででは考えられなかった仕事の機会をいただけるようになったんですね。2015年に「会社を継ごう」と決意して、2017年に経営理念を作って、自分が何をやりたいのかが明確にしてから、歯車が大きく動き出した気がしますね。
 

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